こんばんは。
きのうから『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(井上ひさしほか 文学の蔵編 新潮文庫)を読み直しています。ほんとうにためになり、おもしろいのです。
さて、「山んばの嫁さん」の話のつづきです。
山んばが登場したときから「ずいぶん胸が大きい山んばだな!」とは思っていたのですよ。そうしたら、クライマックスでその豊満なおちちがぼよーん!と出てきて、しかもそれがのこぎりのような武器になって、数えきれないほどある昔話のなかでも奇想天外なほうなんじゃないかと大笑いしました。
笑いが落ち着いてから考えると、いろいろ思うことがあります。
山んばがおじいさんを取って食ったり子どもたちのおみやげにしたいだけなら、さっさとおどして連れていくほうが手っ取り早いはずです。でも、山んばはおじいさんの嫁になり、身のまわりの世話をするという手間をかけ、おじいさんがたえきれなくなったらようやく連れていく。そもそも、食べるのだったらおじいさんではないほうがよさそうです。
おじいさんをすぐにつかまえるのは遠慮したのか、おいしいごはんをたらふく食べさせ油断させてからつかまえるのがその山んばのたのしみなのか、ひとり身のおじいさんに嫁が来たという夢を見せたいのか。山んばはどうして嫁になったのかという疑問には、考える人の数だけ答えがあると思います。
おじいさんをすぐにどうにかしないところに、昔話の時間の流れのゆるやかさを感じます。そのゆるやかさ、すぐにものごとが動かないということは、「こうじゃないか。ああかもしれない」と自分で考える時間をくれます。
「まんが日本昔ばなし」を久しぶりに観て、昔話は、全部を説明しきらず想像する余白をのこしておいてくれる物語なのではないかと思いました。おもしろかったりたのしかったり、ときにはおそろしかったりする数々の昔話は、その魅力的なストーリーと想像する余白でわたしたちをひきつけます。
ところで、わたしが「おちちが…木が切れるって…!」と、とぎれとぎれにつぶやきながらヒーヒーと笑っていても、夫はノーコメントでした。こんなに爆笑しているというのに…!
やはり、わたしの貧乳を実は気にしているのか。貧乳から目をそらしたいために、おちちの話題にはふれたくないのか。
謎です。
昔話に出てくるたべものって、どれもおいしそうです。